1883年(明治16年)に建てられた鹿鳴館は、
日本が西洋に劣らない文明国であることを
海外に示すことが目的でした。
そのため、鹿鳴館では、
海外からの賓客接待のための
数々の夜会や舞踏会が開かれました。
洋装と装身具が身につかない日本人
鹿鳴館では、海外からの賓客接待のための
数々の夜会や舞踏会が開かれました。
しかし、鹿鳴館に集う日本の政府高官や上流階級の人たちは、
西洋式社交界のマナーやエチケットを
身に着ける時間もなかったことから、
海外の外交官からは、その行動やマナーに対して
失笑を買っていたそうです。
それも当然で、着物と言う伝統文化に
長い年月慣れ親しんできた日本人にとって、
急に和装から洋装へと転換するのは簡単なことではなかったのです。
アクセサリーやジュエリーといった装身具に関しても同様でした。

女性は家を守る存在だった
明治になるまで、女性は家で家事や子育てをする存在、
つまり家を守ることが一番大事とされていたのに、
いきなり西洋式に夫婦でもてなすために
社交の場へ出なければならなかったのですから、
その苦労は察するに余りあります。
社交界の華が登場
そんななか、「鹿鳴館の華」と呼ばれ、
注目を集めたのがたのが陸軍大将、
大山巌(いわお)の妻、大山捨松(すてまつ)でした。
11歳でアメリカへ留学し、10余年をかの地で暮らした捨松は、
英、仏、独語を自由に操って冗談を交えた会話を楽しみ、
センスのいいドレスをまとって華麗なダンスステップを披露したのです。
また、外務卿、井上馨(かおる)の妻、武子(たけこ)の指には、
フランス・パリのシャンゼリゼ通りの宝飾店で買ったという
1カラットのダイヤモンドの指輪が、輝いていました。
そのダイヤモンドの輝きは、周囲から羨望の眼差しを集めたそうです。。
まとめ
向上心の強い女性たちは、「鹿鳴館の華」と呼ばれた
大山捨松や井上武子から
西洋のお洒落、立ち居振る舞いを学んでいきました。
そして、ダイヤモンドは文明開化の象徴として
社交の場での重要なファッションアイテムとなっていったのです。

